2007-12-23
福岡伸一(著)『生物と無生物の間』(講談社現代新書)、講談社、2007年。
毎日忙殺されている。頭がぼーっとしてくる。しかしほんとに死んでは意味がないので息抜きをすることにした。よく寝て、頭をリフレッシュして、読むことにしたのがこの本だった。
この本はずいぶんと売れているらしい。家族の又聞きによると、野口英世の部分がおもしろいということだった。そうなのか。
学生の頃、ワトソンの『二重らせん』の翻訳を読んだ。内容はほとんど覚えてなかったが、DNA発見までのスリリングな話なのに、かなり人間くさい内容だったことは覚えていた。そういう類かなとぼんやり思った。
ただ売れている本は大概ありきたりのことを書いているから、と立ち読みですませようとおもいつつ、ちょうど安売りセール展開中の生協に行った。
実のところ専門的な内容らしい。しかも科学史の本としても読めそうである。また著者が狂牛病に関しても注目すべき発言をしていることを遅まきながら知った。iPS細胞報道以降、若干影が薄くなったES細胞についてもふれているようだ。購入してみた。
野口の部分は新書の導入としてインパクトがある。1000円札にも使われているその彼の業績は今やほとんど意味を持たないということは、著者の現在の研究からみれば、もはやどうでもいいことだが、導入として見事な「つかみ」になっている。
まあ、たいてい権威というのは後の者がそれをなにかに利用しているから、維持されるわけだ。そもそも人が人である以上、しかるべき貢献者が必ず評価されるなんてことはいつもおこりうることではない。
何が価値あるものか思いこみを排して判断できる人は思った以上に少ない。すでに誰かが評価したイメージが多くの人の評価対象になっているのが現実で、しかも「同調」や「共感」でその「善悪」を判断するのだ。全くおかしなことだが、たぶんこういう例は枚挙に暇がない。
ワトソン、クリックも登場する。その影にいた「ロージィ」の話になると、もはや科学裏話を読んでいる気分である。前に読んだ『二重らせん』をひっぱりだしてみると、その貢献にしては「ロージィ」はたしかにひどい書かれようである。おもしろく再読できそうである。
ただこうした読みやすい部分は核心ではなく、筆者の現在の研究状況を説明するまでの研究前史に位置している。核心に迫るほど結構、専門用語がおおくて難解なのだが、それまでの研究史のわかりやすさと巧みな比喩のお蔭もあって、なんとか読了できた。そういう意味でたしかに見事な本である。
>「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは
>1年も会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ
>替わっていて、お変わりありまくりなのである。
こんな調子である。ちなみに人体が止まらない流れのなかにあるというのは東洋医学の発想にも通じる。生物を動的平衡性でとらえるというのは気の流体モデルに近い。だから東洋医学は先端的ってことには直結しないとおもうが、比喩として人体をどのように理解するかということは、あらゆる解釈に影響を及ぼす重要なことに思えた。
また様々な「大学(特にアメリカ)」や「研究者」「研究資金」像をみせてくれる記述も多く、おもしろい。ネットで書評の類を検索するとそこに結構、関心や共感があつまっているようであった。
まあともかく、研究がすすむということはたえず、挫折や失敗をくりかえしながら、であって、権威や思いこみを守ろうとすれば腐臭がすることになりかねない。極端な話、人体と同じで、どれだけその人の知識の代謝が行われているかが新しいものを生み出す力になるのだろう。
「チャンスは準備された心に降り立つ」。これは資料の現物を見たときによく思うことに同じである。
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このブログは個人メモなのでコメントの必要がないとおもってましたが読む人もいるようなので一言。
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